洋書絵本の魅力とは

洋書絵本を皆さまにお届けする理由

私たちは、なぜ洋書絵本を読むのでしょうか。たとえばすでに翻訳が出ている絵本をわざわざ洋書で読む意味とは何でしょうか。翻訳と洋書とのいちばん大きな違いはもちろん言語ですから、日本語で読むことに対する他言語で読むことの独自性を取り出すことができれば、それが洋書絵本を読む意味なのだと言っていいように思われます。

たとえばここにひと組の絵本があります。


「リディアのガーデニング」
(アスラン書房)

「The Gardener」(FSG)

一冊は「リディアのガーデニング」(アスラン書房刊、978-4900656307)、もう一冊はその原書「The Gardener」(FSG刊)です。お父さんの仕事の事情でおじさんの家に預けられることになった女の子のお話。おじさんはパン屋を営んでいますが、どういう訳かいつもすごく不機嫌そう。女の子はおじさんの笑顔が見たいと思い、長い時間をかけて屋上にガーデニングを施します。そして努力の甲斐あり、ある日初めておじさんを驚かせることができました。笑顔こそ見せてはくれませんでしたが。お父さんの仕事がうまく行き始め、やっと家に帰れることになった日、駅まで見送りに来たおじさんは、思いがけず心を込めて女の子を抱きしめてくれるのでした。

この作品の真骨頂は、おじさんが女の子を抱きしめるラストシーンにあります。それまで物語が描いてきた、何があっても笑わない、もしかしたらすごく冷たい人かも知れないおじさんの姿と、ラストシーンの、真情をあらわにし心を込めて抱きしめてくれるおじさんの姿との間に、できるだけ大きな落差をつけることによって、深い余韻を残すことが狙いとされています。ところが原書と翻訳を読み比べてみると、どうしても原書の方がその落差が大きく、読後の余韻がより深いように感じられるのです。なぜでしょうか。

原因として、私たちの母国語と外国語の習熟度の差があげられます。母国語はなじんできた時間も長く習熟度が圧倒的に高いので、ひとつの単語やその組み合わせによって実現される微妙なニュアンスを、すべて読み取ることになります。この微妙なニュアンスは、でも両刃の剣で、細かいところまで意味が明確になる一方で、言霊と呼んでいいようなウェットな重みがひと言ひと言にぶらさがっているようにも感じられるのです。

先に挙げた翻訳作品の場合、この重みのせいで物語の描き出す線が押し下げられ、結果として結末との落差を小さくしてしまっていると言えます。ただし、これは翻訳だけを読んでいては気づくことができません。原書を読んで初めて、言霊の重みから解き放たれた乾いた語り口と淡々とした物語の進み具合が、より深い余韻をもたらす効果を上げていること、そしてそれに比べると翻訳は言葉の重みのせいで作品の効果を減じてしまっていることに気づかされるのです。

もちろんこれには日本語という言語が持つ性質と、外国語の持つ性質との差もあると思われますが、いずれにせよ翻訳を読んでいるだけでは決して手に入らない感動の質がそこにはあります。それをダイレクトに味わうことが、洋書絵本を読む最大の根拠であると言えるでしょう。

語学力が問題とおっしゃる方もいらっしゃるかも知れませんが、私たちは試験問題を読むように厳密に何かを読む必要はないのではないでしょうか。誤読したとしても、そこには想像力を介したあなただけの物語があるかも知れないのです。どうか少しだけ手を伸ばして、日本語の向こうにある、日本語に完全には置き換えることのできない物語たちをつかみ取って下さい。そこには実に豊かな心の体験が待っています。そうした皆さまの体験が少しでも増えるようお手伝いすること、そのためにさまざまな機会をご提供して行くことが弊社の役目だと考えております。